昭和四十四年一月二日 朝の御理解
X御理解第八十八節 「昔から、親が鏡を持たして嫁入りをさせるのは、顔をきれいにするばかりではない。心につらい悲しいと思う時、鏡を立て、悪い顔を人に見せぬようにして家を治めよ」ということである。
いよいよ今年は「より明るく、よりにこやかに」と云う、合楽の信心の焦点とおいて、本気で信心の稽古をさせて頂こう。それが、云わば去年一年間の信心によって、整地が出来た所へ、種を蒔かせて頂く様なもの。本気でそこのところを、体得していきたいと思います。
そこで、その心に辛い悲しいと思う時、鏡を立て<ろ>とおっしゃる。心に辛い悲しいと思うておって、にこやかに顔だけはしておる。と云う様な事では何にもならん。鏡を見た途端にはっと気が付きます。「私はこんな顔しておった」と。そこに「いよいよ豊かに、いよいよ大きく」と云う御理解を去年一年間頂いてきた。
そして、思うてみれば思うてみる程、ここで、私がこの様な顔をしておる事ではなかった。ちょっと鏡を見た途端に、自分の心にとりなおしが出来て、神様すみません、と、心から詫びるところから、にこやかにと云うか、明るくなれる。
鏡を見て、心を見なかったら、顔で笑って心で泣いて、と云う事になる。これでは、おかげは受けられません。ですから、鏡を見た瞬間ハッと気付かせて頂く様なおかげを頂きたい。そういう心でなければ家は治まらん、と云うのである。
私は、この八十八節を頂いて、今日は、このどこを焦点において頂いたらよかろうかと思った。そしたら信心の心得に、『まめなとも信心の油断をすな』と頂いた。
お互いがちょっとした事が気にさわる。ちょっとした事がにこやかに出来ない。もちろん明るくなんか出来ない。それかと云うて、ちょっとした事が、気持ちが、スーッとして有難い。
今日は若先生達が、本部参拝しておりますから、残った者で全ての事がなさなければならない。
それで四時になりますと、いつも光昭が迎えにまいります。が、今日は繁雄さんが、その御用を頂かれる事になっておった。
ところが私は、出仕させて頂こうと思うのですけれども、誰も来ない。毎日私がさせて頂いておる事ですけれども、それが慣れないもんだから、此細(ささい)な事からでも違ってくる。スリッパの置き方から違う、戸を開ける所も、とてつもない所を開けられる。「こげな所からですか」と、もの云わんでもよいところを、もの云わにゃならん。
私が御祈念が済んで、御結界へ下って来たら、電気が点いとる。これも、ここの御祈念は、五時からじゃから、五時から点けにゃいかんと云うので、消させました。その事も云わんでよかとに云わにゃいかん。
五時になって、全館の明りを一斉につけにゃいかんのに、そのために繁雄さんが来ちゃるのに、ちゃあんとここで、眠ってしもうちゃるから、「こらこら繁雄さん」と云わにゃでけん。
もう本当に、そうゆう此細な事が、朝からにこやかに出来ないのです。ところがです、今ここで、御理解が始まると云うので、繁雄さんが、マイクを用意して下さった。そして、このつい立てを、いつも下へ下ろすのですけれども、今日は、そのつい立てを上に上げられた。
そしたら、これはいいなあと私が思うたんです。これは大発見だ。もう私の気持ちが一遍で明るくなるのですよ。だから、こうゆう風に暗くなったり、明るくなったりしちゃあいけんのです。
スリッパの置き方が違おうが、開け所が違おうが、それは慣れちゃないから仕方がないのです。そんなら間違うてから、そのつい立てを下に置かずに上に置かれたと云う事がです、これはいいなあと思うたら、心が明るくなった。人間て、どうしてこんなに不思議に、デリケートに出来るだろうかと思うのです。 そこから今日の、御理解八十八節ですが、今年の信心のスローガンが「より明るく、よりにこやかに」と云うて、これに実際取り組まにゃ、唯一唱えておるだけではいかんのです。それを思うておるだけじゃいかんです。
思うておって、明るうならにゃ、明るうならにゃと云うただけじゃ明るうならんです。今云う人間の心の中の微妙さ、デリケートさと云うものがです、ここの開け所が違うただけでも気分が悪い。かと云うてつい立てを置き違えなさったら、それが反対に気分がいい。人間て我がままも我がまま、自分がいいなあと思う様にならなければ、にこにこ出来ておれんと云う事は、これはもう本当に元旦に頂いて、いわば二日の今日から、この様な細かいところからひとつ徴に入り細にわたっての稽古を本気でさせてもらわにゃいけないなと云う事でした。
そして、「昔から、親が鏡を持たして嫁入りをさせるのは、顔をきれいにするばかりではない。心に辛い悲しいと思う時、人に悪い顔を見せぬようにして、家を治めよ」と云う家を治める前に、まず自分の心を治めなければならない。 只、辛い悲しい顔を鏡で見て、にこにこしようと思うてするのは、心で泣いて顔で笑うと云うのだけじゃいけん。鏡を見た途端に教をひもじいた途端に、はっと気付かせて頂いてもう心からにこやかにできるおかげを頂かねばならない。
それを、私の場合は昨日それを頂いて思い続けておるのである。思い続けておるのだけれども、朝のそうゆう様な大事なところに、例えばちょっとしたスリッパの置き所が違う、開け所が違うと云うだけでも、心が明るくもなれねば、にこやかにも出来ないと云うところに、人間の心のデリケートさを感じる、いわゆる業を感じる、難儀を感ずるのです。
そこで、私は、只今頂きます様に、そんなら、どこんところが間違うたらその様になるか、いつも心にかけどおしにかけておる。
「思い出すよじゃ惚れよがうすい思い出さずに忘れずに」、もうこれは、昨日から、ずーっと思い続けておる事。それでいて出来んのは何故かと、そこに、『まめなとも信心の油断をすな。』、もう形には出来ておる様であるけれども、まめである為に信心の油断が出来る。
まめなとは健康と云う事ですけれども、ここではね、平穏無事、何にもない。この様な広大なおかげを頂いておる中にと云う意味なんです。
誰が、正月と云うのに泊まりがけで、朝の御用は私がさせて頂きましょうと云おうか。繁雄さんにしろ、久富先生にしろです。結局私は、『まめなとも信心の油断をすな』とおっしゃるが、まめであるあまり、おかげを頂きすぎておるそこに、油断があったと感じます。
人間の心ほど、徴細なものはない、デリケートなものはない。自分の思う様になりゃにこやかに、思う様にならなきゃ、どうしたの、こりゃ間違うとるじゃなかかと、云わねばならんと云うところに、鏡を見らにゃならんとですけれども、鏡を見る前に、まめなとも、信心の油断をしておるからなんです。おかげを頂きすぎて、油断をしておるからなんです。
昨日から、頂くその教えを思い続けておっても、もう油断が出来とる。だから思い続けておるだけではいけない事が分かります。いわゆる、『まめなとも信心の油断をすな』と云う信心の油断がそこに出来ておる。口で唱えておるだけである。
例えて云うならば、今日は私の出仕を迎えて下さるのは、初めての事であるから、久富先生のされる事に、どこにそそうがあるやら、いつもの様にいかんかもしれんけれども、それでもおかげだと、そこをちゃんと頂いとかにゃいかん。そして、間違うとるなら、間違うとる中に有難いと感じさせて頂けるおかげを頂こうと、腹を作っておかにゃいかん。私は「信心の油断をすな」とは、そんな事だと思う。
ですから、いかに「より明るく、よりにこやかに」と、唱え続けておっただけではいけない事が分かります。私は唱え続けておったんですから、それでもやはり油断があるから、こんな事を間違えて、と朝の大事な時間から、あかるいどころか反対に暗くしておる。間違うたことが、こらよかたい、と思うたら一遍に明るくなっておる。
こげなつがお天気屋さん云うのでしょうけれども、皆がそういうお天気屋さん的なものを持っているのじゃないでしょうかねえ。照ったり曇ったりが少し激しいと云う人は有りますよ。そういう人は確かに有ります。だからお天気屋さんでは困る。
ですから、本気で私共は、壮健なとも信心の油断をすなとおおせられる。信心の油断を、いつどこから打ち込まれても、パッとそれを受け止められる、受け交わされるだけの信心、まめなとも信心の油断をすなと云う事はそういう事だと思う。
そういう信心を頂いて、はじめて私はこの八十八節が有難いものになってくると思うのです。云うなら、心に辛い悲しいと思う様な事があって、パッとその鏡を取って見る。そして次の瞬間には油断があった。切り込まれたと気付かせて頂いて、神様相済みませんと、そこからお詫びをさせてもらい、そこからむしろ、その事に対してお礼を申し上げさせてもらい、自分の心が治まると云うところに、家が治まらないはずはないと云う事になってくるのでこざいます。 私は、この「より明るく、よりにこやかに」と云う事は、もう大変な事だと云う事だけは思うとります。これが目分のものになると云う事は大変な事だと、唯(ただ)明るく、にこやかにしておけばいいのですねと云うだけの事ですけれども、実を云うたら、大変難しい事だなと、取り組んでみて今日のような体験が生まれてくる。
そして、思い続けておるだけではいけない事が分かります。『まめなとも信心の油断をすな』と平穏無事だからと云うて、信心の油断をすな、おかげを頂きすぎておるからうかつにしておる。そこにパッと切り込まれる。それを受け損のうて怪我をする。そして、たえひと時でもいやな顔を人に見せねばならない。
辛い悲しいの起こらん位な、信心の油断をしちゃならないと思う。そこはただし、生身ですから、不意に打ち込まれると、辛いと思うたり悲しいと思うたり致しますけれども、腹が立ったり致しますけれども、次の瞬間には教えが蘇ってくる。いわゆる鏡を前に立てた訳である。次の瞬間には油断じゃったと改まらしてもらう。お詫びをさしてもらう。そこに、心に苦しいけれど顔だけ笑っていると云うものでなくて、そこから相済まんと云う態度、心から有難うございますと云うお礼の心が湧いてくる。そこに心はいよいよ有難く治まっていく。ここに、家が、世の中が治まっていかないはずはないと思う。
どうぞ、「より明るく、よりにこやかに」おかげを頂いていく為に、今日の様な目の細かいところを身につけていく稽古をさせて頂かねばならんと思うのですよ。どうぞ。